日本初・鉄(かね)の橋 3
薩英戦争の発端となった横浜の殺傷事件は、生麦事件として幕末の歴史に残り、京浜矛一国道の海岸沿いに、生麦事件碑が建てられています。
この中にあって、外国人居留地とつなぐ横浜吉田橋の検門がとくに厳重に行われたのは当然です。
また吉田橋には橋番所を設けて、二頭立馬車、一頭立馬車、人力車、荷車の順で橋銭、つまり通行料を徴収していました。
このころ、吉田橋を中心にして外人居留地側つまり馬車道側を関内、伊勢佐木町側を関外の名で呼んだということです。
吉田橋が木橋から鉄橋に架け変えられたのは明治二年のことでした。
設計はイギリスの土木技師で、長さ約二十四メートル、幅九メートルの無橋脚鉄橋で、日本ではじめての鉄橋はかねの橋といって、連日橋見物の人でにぎわったそうです。